モラルについての思考はお国柄が出やすいところがあり、柘植先生の『イギリスのモラリストたち』に引っ掛けて言わせていただけば、「フランスのモラリストたち」や「ドイツのモラリストたち」というくくりかたをしても、なにか面白いことが見えてくるのかもしれない。ただそうした違いを越えて、西洋近代の倫理思想を貫く共通のものが、なにか存在はしないだろうか。これも難しい問題だけれども、もしかしたらひとつのヒントになるかもしれないのは、ローマのストア主義の幅広い受容だ。デカルトはエリザベトのためにセネカを論じ、パスカルは最大の愛読書としてエピクテトスを挙げる。キケロ『義務論』のカント倫理学への影響は、前世紀の前半からずっと論じられてきた問題だし、先日紹介したハチスンの訳書でも、頻繁にキケロの同じ作品への言及が見られる。
ただ、それだけ大きな影響力を持ったローマのストア主義が、専門家によって熱心に研究されているかというと、実はそうでもなかったりする。専門家に限られない広範な受容と、専門的な研究の不足のあいだには、ある種のねじれがあるわけだが、それがとりわけ顕著なのは、マルクス・アウレリウスの『自省録』というテクストではないだろうか。このテクストは、多くの西洋人の魂を支え続けてきたテクストであるとともに、この国では神谷美恵子という、得がたい専門外の名訳者を獲得することにより、長らく広い読者に読まれ愛されてきた。けれども、ローマのストア主義の研究が長らく低調なこの国には、『自省録』の専門的な研究などは、あまりにも寂しい数しかないというのが現状だ。こうした現状に風穴を開けてくれるかもしれない、待望の『自省録』論が、今年の夏に出たこの作品だ。
恥ずかしいことだが、私がこの作品の存在に気づいたのは、つい先週のことだ。この本が出たころにいろいろ立て込んでいたり、この「書物誕生」のシリーズに注目していなかったりということなどもあって、完全に見落としていた。そういう私がいまさら言うのもなんなのだが、まずこの「精神の城塞」という副題について一言申しておきたい。『自省録』の愛読者なら、この副題を見てすぐに、「激情から解放されている精神というものは、一つの城砦である。一たびそこへ避難すれば以後絶対に犯されることのないところで、人間にこれ以上安全堅固な場所はないのである。ゆえにこれを発見しない者は無知であり、これを発見しておきながらそこへ避難しない者は不幸である」(八・四八、神谷訳より)という、『自省録』の一節を連想するはずだ。そしてこのイメージには、私などにはほとんどあがらいがたい引力を及ぼしたりもする。書店でこの副題を見て、内容もよく確認せずに買うことになってしまったし、買ってからもこの本が家にあるとおもうと、なんとなく家に帰りたい気持ちになったことなどもあった。この副題は、著者の荻野氏によれば、先行研究へのオマージュの意味があるそうなのだが、そういうこととはまったく関係がないところで、この副題にはしてやられた気がした。
作品の全体としても、類書があまりないのに、いい作品だとおもう。海の向こうの研究の成果が踏まえられ、私が知らなかったいろいろな情報が示されているし、また今日的な視点からの分析なども示されている。とくに『自省録』の全体が、ストアの三つの規則を反復する構成になっているというのは、この本を読まなければ、この先何度『自省録』を読み返しても、私は死ぬまで気がつかなかったかもしれない。とはいえ、過度に奇をてらわず、作品のイメージと神谷訳を大事にしてくれていることには、とても好感がもてる。とくに、結局のところ『自省録』は誰がなんのために書いたのか、というのは、けっこう結論次第で大きく落胆しかねない問題で、読みながらもはらはらしていた。それだけに、『自省録』のテクストを「皇帝は自分の手で書き下ろした。(中略)毎日少しずつ書きためていったが、それは公刊のために推敲を重ねる以前の状態にとどまっていた。これが後世の人々に読み継がれようとは思いもよらず、自分の書いた覚書がそのまま読者の目にふれることは彼の意図を裏切るものであったに違いない」という、本書の「暫定的な結論」(p.94)には、なんだかほっとした気がした。こんなはらはらと安堵感は、私は最近あまり味わったことがない。いやはや、スリリングな読書だ、スリリングな読書だ。
ただ、それだけ大きな影響力を持ったローマのストア主義が、専門家によって熱心に研究されているかというと、実はそうでもなかったりする。専門家に限られない広範な受容と、専門的な研究の不足のあいだには、ある種のねじれがあるわけだが、それがとりわけ顕著なのは、マルクス・アウレリウスの『自省録』というテクストではないだろうか。このテクストは、多くの西洋人の魂を支え続けてきたテクストであるとともに、この国では神谷美恵子という、得がたい専門外の名訳者を獲得することにより、長らく広い読者に読まれ愛されてきた。けれども、ローマのストア主義の研究が長らく低調なこの国には、『自省録』の専門的な研究などは、あまりにも寂しい数しかないというのが現状だ。こうした現状に風穴を開けてくれるかもしれない、待望の『自省録』論が、今年の夏に出たこの作品だ。
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恥ずかしいことだが、私がこの作品の存在に気づいたのは、つい先週のことだ。この本が出たころにいろいろ立て込んでいたり、この「書物誕生」のシリーズに注目していなかったりということなどもあって、完全に見落としていた。そういう私がいまさら言うのもなんなのだが、まずこの「精神の城塞」という副題について一言申しておきたい。『自省録』の愛読者なら、この副題を見てすぐに、「激情から解放されている精神というものは、一つの城砦である。一たびそこへ避難すれば以後絶対に犯されることのないところで、人間にこれ以上安全堅固な場所はないのである。ゆえにこれを発見しない者は無知であり、これを発見しておきながらそこへ避難しない者は不幸である」(八・四八、神谷訳より)という、『自省録』の一節を連想するはずだ。そしてこのイメージには、私などにはほとんどあがらいがたい引力を及ぼしたりもする。書店でこの副題を見て、内容もよく確認せずに買うことになってしまったし、買ってからもこの本が家にあるとおもうと、なんとなく家に帰りたい気持ちになったことなどもあった。この副題は、著者の荻野氏によれば、先行研究へのオマージュの意味があるそうなのだが、そういうこととはまったく関係がないところで、この副題にはしてやられた気がした。
作品の全体としても、類書があまりないのに、いい作品だとおもう。海の向こうの研究の成果が踏まえられ、私が知らなかったいろいろな情報が示されているし、また今日的な視点からの分析なども示されている。とくに『自省録』の全体が、ストアの三つの規則を反復する構成になっているというのは、この本を読まなければ、この先何度『自省録』を読み返しても、私は死ぬまで気がつかなかったかもしれない。とはいえ、過度に奇をてらわず、作品のイメージと神谷訳を大事にしてくれていることには、とても好感がもてる。とくに、結局のところ『自省録』は誰がなんのために書いたのか、というのは、けっこう結論次第で大きく落胆しかねない問題で、読みながらもはらはらしていた。それだけに、『自省録』のテクストを「皇帝は自分の手で書き下ろした。(中略)毎日少しずつ書きためていったが、それは公刊のために推敲を重ねる以前の状態にとどまっていた。これが後世の人々に読み継がれようとは思いもよらず、自分の書いた覚書がそのまま読者の目にふれることは彼の意図を裏切るものであったに違いない」という、本書の「暫定的な結論」(p.94)には、なんだかほっとした気がした。こんなはらはらと安堵感は、私は最近あまり味わったことがない。いやはや、スリリングな読書だ、スリリングな読書だ。
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