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最近の更新ではなぜか「縛り」なるものがあるような雰囲気があり、またローゼンツヴァイク関連でなければならないというプレッシャーがある気がしなくもない今日この頃、さてどうしたものか。
「縛り」というのは子供の頃やっていた「大富豪大貧民」というトランプゲームで聞いた用語なのだが、いったいこの用語はどれほど人口に膾炙しているのか、いまいちわからない。そもそも由来が何なのかわからないのだが、誰か知っていたら教えてください。
さて「縛り」の件はさておき、今回は実はハイデガーで。といっても本というか、雑誌というか、良くわからないものを取り上げてみよう。河出書房新社から今年3月に出版された「KAWADE道の手帖」シリーズの『ハイデガー 生誕120年、危機の時代の思索者』である。
目玉としては、ハイデガーの『建てる 住む 思考する』という講演の翻訳が収録されていることだろうか。他にも研究者のインタビューや著作解題、ハイデガーにかんする思い出等々収録されており、雑誌感覚で読める(とはいっても内容が雑誌のように軽薄であるわけではない)。
面白いのは、三木清や田邉元、和辻などのハイデガーへの言及なども少し収録されていることだ。三木や田邉の全集を持っている人は必要ないだろうか、自分もそうしたものは持っていないので、少し興味をそそられた。
どうでもいい話なのだが、三木によるハイデガーの思い出に、「机」が登場する(三木の全集17巻に収録されているらしい)。「机」といっても座って向かい合うものではなく、教会などの説教壇のような、背の高い「机」がハイデガーの家にあったというのである。三木も「自分も欲しい」と述べているが、本当に実用的なのだろうか。案外「立って考える」ほうが緊張感があって良いのかも知れないが。
普段何気なく使用している「机」でも、少し使い方が異なるだけで、まったく違う事物として現れてくる。今まで机は座って使用するものだと思い込んでいたが、今度は違う風に使うことを考えてみようかな。ただ、ハイデガーがその「机」を実際に使用していたかどうかわからない。マールブルクから引越したばかりで、間借りしていたらしいから、大家の荷物置き場だったという顛末なのかもしれないわけだし。
どうでもよい「机」の話で、しかもたった2ページの記述なのだが、非常にうまい文章であると思う。これを選んだ編者か編集者はよほどの目利きかもしれない。なんとなくやられた気分になったので、とりあえず更新してみた次第である。
「縛り」というのは子供の頃やっていた「大富豪大貧民」というトランプゲームで聞いた用語なのだが、いったいこの用語はどれほど人口に膾炙しているのか、いまいちわからない。そもそも由来が何なのかわからないのだが、誰か知っていたら教えてください。
さて「縛り」の件はさておき、今回は実はハイデガーで。といっても本というか、雑誌というか、良くわからないものを取り上げてみよう。河出書房新社から今年3月に出版された「KAWADE道の手帖」シリーズの『ハイデガー 生誕120年、危機の時代の思索者』である。
![]() | ハイデガー (KAWADE道の手帖) (2009/03/10) 不明 商品詳細を見る |
目玉としては、ハイデガーの『建てる 住む 思考する』という講演の翻訳が収録されていることだろうか。他にも研究者のインタビューや著作解題、ハイデガーにかんする思い出等々収録されており、雑誌感覚で読める(とはいっても内容が雑誌のように軽薄であるわけではない)。
面白いのは、三木清や田邉元、和辻などのハイデガーへの言及なども少し収録されていることだ。三木や田邉の全集を持っている人は必要ないだろうか、自分もそうしたものは持っていないので、少し興味をそそられた。
どうでもいい話なのだが、三木によるハイデガーの思い出に、「机」が登場する(三木の全集17巻に収録されているらしい)。「机」といっても座って向かい合うものではなく、教会などの説教壇のような、背の高い「机」がハイデガーの家にあったというのである。三木も「自分も欲しい」と述べているが、本当に実用的なのだろうか。案外「立って考える」ほうが緊張感があって良いのかも知れないが。
普段何気なく使用している「机」でも、少し使い方が異なるだけで、まったく違う事物として現れてくる。今まで机は座って使用するものだと思い込んでいたが、今度は違う風に使うことを考えてみようかな。ただ、ハイデガーがその「机」を実際に使用していたかどうかわからない。マールブルクから引越したばかりで、間借りしていたらしいから、大家の荷物置き場だったという顛末なのかもしれないわけだし。
どうでもよい「机」の話で、しかもたった2ページの記述なのだが、非常にうまい文章であると思う。これを選んだ編者か編集者はよほどの目利きかもしれない。なんとなくやられた気分になったので、とりあえず更新してみた次第である。
ブログを更新するのも意外に面倒なのかもしれないと思う今日この頃であるのだが、久方ぶりに更新してみたりみなかったり(どっちだ)。
前回はなぜかローゼンツヴァイクだったのだが、今度はそのつながりで別の哲学者などを取り上げてみようかな。『救済の星』の評価に若干影響していると思われる、レヴィナスである。
レヴィナスは主著『全体性と無限』の序文でローゼンツヴァイクに言及している。
「ローゼンツヴァイク『贖罪の星』のなかで……全体性の観念に対する断固たる反対に感銘を受けた」。
レヴィナスは「全体性の観念に対する断固たる反対」と簡単にまとめているのだが、ローゼンツヴァイクの言っていた「すべて」についての哲学は、もう少し入り組んだ構造をしていたように思う。この点についてはローゼンツヴァイクの側から論じることができるかもしれないが、今回は後回しにしとこう。というか誰か論じてください。
じゃあ何を取り上げるんだって感じなのだが、今日はレヴィナスの紹介について。それは木元麻里氏による文章で、『現代哲学の名著』に収録されている。
こういうブログを読む人はレヴィナスの本くらい何冊か既に読了していそうなのだが、そういう人でも一読の価値はあるように思う。というか、レヴィナスの文章自体、一読して終わり、という読み方は向かないような気がする。
レヴィナスの文章は、「わかった」という仕方で読み終わるのではなく、「わからない」というのになぜか読み進んでしまう不思議なものである。かつて内田樹は師弟関係としてのレヴィナス読解を提示していたと思うが、読者とレヴィナスの関係はまさしくそのようなものではないだろうか。
木元氏は『全体性と無限』の主旨と論点を手際よくまとめている。パルメニデスから始まり、所有、他者、エロスと段階を踏まえた論述は、一つの筋立てとして見通しがよい。こうした「見通しのよさ」は、『全体性と無限』のような大著を読む際には踏まえておきたい視点の一つであろう。レヴィナスのエロスに関する記述に少し疑問を呈している点は、納得できると同時に、紙幅があればもっと掘り下げた話を聞いてみたいとも思うのだが、いかがだろうか。
だがこうした「見通しのよさ」は、それだけで本を「了解してしまう」ことにはならない。「すべて」を了解しようとする理性に対する抵抗こそ、レヴィナスが語ろうとしていたことだったように思われるからである。既に読了した人もそうでない人も、ガイドブックを片手に、もう一度『全体性と無限』を手にとって見てはどうだろう。
前回はなぜかローゼンツヴァイクだったのだが、今度はそのつながりで別の哲学者などを取り上げてみようかな。『救済の星』の評価に若干影響していると思われる、レヴィナスである。
レヴィナスは主著『全体性と無限』の序文でローゼンツヴァイクに言及している。
![]() | 全体性と無限 (上) (岩波文庫) (2005/11) レヴィナス 商品詳細を見る |
レヴィナスは「全体性の観念に対する断固たる反対」と簡単にまとめているのだが、ローゼンツヴァイクの言っていた「すべて」についての哲学は、もう少し入り組んだ構造をしていたように思う。この点についてはローゼンツヴァイクの側から論じることができるかもしれないが、今回は後回しにしとこう。というか誰か論じてください。
じゃあ何を取り上げるんだって感じなのだが、今日はレヴィナスの紹介について。それは木元麻里氏による文章で、『現代哲学の名著』に収録されている。
こういうブログを読む人はレヴィナスの本くらい何冊か既に読了していそうなのだが、そういう人でも一読の価値はあるように思う。というか、レヴィナスの文章自体、一読して終わり、という読み方は向かないような気がする。
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レヴィナスの文章は、「わかった」という仕方で読み終わるのではなく、「わからない」というのになぜか読み進んでしまう不思議なものである。かつて内田樹は師弟関係としてのレヴィナス読解を提示していたと思うが、読者とレヴィナスの関係はまさしくそのようなものではないだろうか。
木元氏は『全体性と無限』の主旨と論点を手際よくまとめている。パルメニデスから始まり、所有、他者、エロスと段階を踏まえた論述は、一つの筋立てとして見通しがよい。こうした「見通しのよさ」は、『全体性と無限』のような大著を読む際には踏まえておきたい視点の一つであろう。レヴィナスのエロスに関する記述に少し疑問を呈している点は、納得できると同時に、紙幅があればもっと掘り下げた話を聞いてみたいとも思うのだが、いかがだろうか。
だがこうした「見通しのよさ」は、それだけで本を「了解してしまう」ことにはならない。「すべて」を了解しようとする理性に対する抵抗こそ、レヴィナスが語ろうとしていたことだったように思われるからである。既に読了した人もそうでない人も、ガイドブックを片手に、もう一度『全体性と無限』を手にとって見てはどうだろう。
「レーヴィット」と聞けば彼の著作を論じるのではと思うのは当然であろう。
だが今日のネタは違う。
今年4月に出版された大著、ローゼンツヴァイクの『救済の星』をレヴューしてみようと考えたのである。
恥ずかしながら、この本が出版されているのを知ったのは最近である。
久しぶりに八重洲のブックセンターに寄ったところ、この分厚い本が平積みされていた。
名前は聞いたことがあるが、邦訳は出ていなかったのだった。
ほぼ1万円なので、購入するかどうかを七転八倒して悩んだ挙句、古典ということで手元に置くことにした。
「なんでレーヴィットが関係あるの?」という話だが、単にユダヤ人つながりというわけではない。
かつてレーヴィットはローゼンツヴァイクについて、ハイデガーと対比させながら論じていたのだ。
(ということを訳者のあとがきで知った)
それは『みすず』という雑誌の1993年8月号と10月号に分載された論文で、「ハイデガーとローゼンツヴァイク」と題されている。
初出は英語だったようで、「ハイデガーとローゼンツヴァイク、あるいは時間性と永遠性」というタイトルだったようだ。
この題が示すとおり、レーヴィットはハイデガーの『存在と時間』(1927)で論じられた「時間性」と、『救済の星』(1921)で論じられた「永遠性」を対比的にとりあげている。
ここでも相変わらずレーヴィットのハイデガー理解は正確なような気がして、「死へと先駆する存在」や「循環」の解釈など、論点の整理に学ぶところがあると思う。
ただローゼンツヴァイクの「永遠性」を論じる際に、「ユダヤ民族」という論点が強く出ているようで、この理解の仕方は少し物足りない。
レーヴィットによる「永遠性」の整理の仕方は、ローゼンツヴァイク自身のテキストにある意味忠実であるとも言える。
ローゼンツヴァイク自身がユダヤ性を強調しているのは間違いないのだから。
ただレーヴィットが言うには、「『救済の星』は『創世記』への注解でもある」のだから(1993年『みすず』10月号、17頁)、世界のはじまりをどう解釈するかというテーマから主に論じてもらいたかったとも思うのである。
世界のはじまりに先立って永遠があったとすれば、永遠である以上時間の経過が生まれる余地は無い。
だが逆に世界のはじまりに先立って時間が生成していたとすれば、それは既に世界のはじまりではないことになるだろう。
詳しくはカントの弁証論でも読んでもらうことにして、レーヴィットこの論文でのローゼンツヴァイク理解は、やや一面的かもしれないと述べてみようか。
とはいえ、レーヴィットを批判するのはやや性急かもしれない。
『救済の星』は整理するにはあまりに膨大な論点を抱えているのだから。
(ちなみにそれが理由で『救済の星』自身のレヴューはやめて、レーヴィットの論文をとりあげたのであった)
たとえば3部構成の第一巻で、「すべて」を「A」、「個別」を「B」とし、「A=B」や「B=A」を論じていく道筋は、なかなか辿りづらい。これは訳が悪いのではなく、原文からして問題を抱えていたものであろう。
原典購読の授業などでは取り扱いにくいテキストではなかろうか。そんな心配はいらないかな。
まあ正確な理解にはやはり原著は手元にあったほうが良いとは思う(ズーアカンプから廉価のものがでているし)。というのもドイツ語の言い回しを踏まえた表現が多いようであるから。ただ邦訳も十分わかり易いと思われる。
そんなわけで、永遠性にまつわる錯綜に入り込んでみたい方は、買ってみたらどうだろう。
だが今日のネタは違う。
今年4月に出版された大著、ローゼンツヴァイクの『救済の星』をレヴューしてみようと考えたのである。
![]() | 救済の星 (2009/04/18) フランツ・ローゼンツヴァイク 商品詳細を見る |
恥ずかしながら、この本が出版されているのを知ったのは最近である。
久しぶりに八重洲のブックセンターに寄ったところ、この分厚い本が平積みされていた。
名前は聞いたことがあるが、邦訳は出ていなかったのだった。
ほぼ1万円なので、購入するかどうかを七転八倒して悩んだ挙句、古典ということで手元に置くことにした。
「なんでレーヴィットが関係あるの?」という話だが、単にユダヤ人つながりというわけではない。
かつてレーヴィットはローゼンツヴァイクについて、ハイデガーと対比させながら論じていたのだ。
(ということを訳者のあとがきで知った)
それは『みすず』という雑誌の1993年8月号と10月号に分載された論文で、「ハイデガーとローゼンツヴァイク」と題されている。
初出は英語だったようで、「ハイデガーとローゼンツヴァイク、あるいは時間性と永遠性」というタイトルだったようだ。
この題が示すとおり、レーヴィットはハイデガーの『存在と時間』(1927)で論じられた「時間性」と、『救済の星』(1921)で論じられた「永遠性」を対比的にとりあげている。
ここでも相変わらずレーヴィットのハイデガー理解は正確なような気がして、「死へと先駆する存在」や「循環」の解釈など、論点の整理に学ぶところがあると思う。
ただローゼンツヴァイクの「永遠性」を論じる際に、「ユダヤ民族」という論点が強く出ているようで、この理解の仕方は少し物足りない。
レーヴィットによる「永遠性」の整理の仕方は、ローゼンツヴァイク自身のテキストにある意味忠実であるとも言える。
ローゼンツヴァイク自身がユダヤ性を強調しているのは間違いないのだから。
ただレーヴィットが言うには、「『救済の星』は『創世記』への注解でもある」のだから(1993年『みすず』10月号、17頁)、世界のはじまりをどう解釈するかというテーマから主に論じてもらいたかったとも思うのである。
世界のはじまりに先立って永遠があったとすれば、永遠である以上時間の経過が生まれる余地は無い。
だが逆に世界のはじまりに先立って時間が生成していたとすれば、それは既に世界のはじまりではないことになるだろう。
詳しくはカントの弁証論でも読んでもらうことにして、レーヴィットこの論文でのローゼンツヴァイク理解は、やや一面的かもしれないと述べてみようか。
とはいえ、レーヴィットを批判するのはやや性急かもしれない。
『救済の星』は整理するにはあまりに膨大な論点を抱えているのだから。
(ちなみにそれが理由で『救済の星』自身のレヴューはやめて、レーヴィットの論文をとりあげたのであった)
たとえば3部構成の第一巻で、「すべて」を「A」、「個別」を「B」とし、「A=B」や「B=A」を論じていく道筋は、なかなか辿りづらい。これは訳が悪いのではなく、原文からして問題を抱えていたものであろう。
原典購読の授業などでは取り扱いにくいテキストではなかろうか。そんな心配はいらないかな。
まあ正確な理解にはやはり原著は手元にあったほうが良いとは思う(ズーアカンプから廉価のものがでているし)。というのもドイツ語の言い回しを踏まえた表現が多いようであるから。ただ邦訳も十分わかり易いと思われる。
そんなわけで、永遠性にまつわる錯綜に入り込んでみたい方は、買ってみたらどうだろう。
作家・評論家の栗本薫=中島梓が亡くなったらしい。
特にファンというわけでもないのだが、彼女のHP「神楽坂倶楽部」は良くチェックしていた。
毎回の更新が面白いというのではない。
ただ数百の更新のうちに何回かは、少なくとも自分には貴重に思える言葉があった気がする。
そうした「たかが数パーセントの面白さ」が故に、彼女の文章を見続けていたのである。
文学やエッセイ、エンターテイメント全般、あるいはその他あらゆる「作品」と呼ばれるもの、それは「面白い」からこそ必要とされる。
「傑作」という名に値する作品でも、その全てが等しく「面白い」というわけではない。これは文学にも音楽にも哲学にも当てはまると思う。
そういえば昔、村上春樹がエッセイで言っていたと思うのだけれど、
「あまりの素晴らしさにひっくり返るようなものが1%でもあれば、残りの99%は我慢する」
というような趣旨のことを述べていた(記憶違いだったら申し訳ない)。
この「たかが数パーセントの面白さ」があるかないかが、自分にとっての作家選びの基準であり、栗本薫はその内の一人だったので、残念としか言いようがない。
「グイン・サーガ」も読んだことが無いというのに偉そうに書いてしまったが、昨年出版されたエッセイ『ガン病棟のピーターラビット』 では、先ほど述べた「面白さ」についても語っていた。
「私は文芸評論家としてデビューしたころに、サルトルの命題「飢えた子供の前で文学は有効か」というのに対して「『文学』はまったく有効じゃない。でも『物語』は飢えた子供にいっとき飢えを忘れさせることができるのだ」ということを主張したことがあります。……しち面倒くさい偉い「文学」はものの役には立たないけれども、「面白くて波乱万丈の物語」は、飢えた子供をでも、死を見据えている患者をでも、いっとき、その心をとらえ、辛い現実を忘れさせるほどの魅力がある」
サルトルはあまり読んでないので知らないし、「文学」が全て役に立たないとは限らないかも、とも思うのだけれど、立場は明確に出ていてわかりやすい。
「それが何の役に立つの」とつい気にしたり、されたりする場合もあるのだが、彼女はエンターテイメントの姿を教えてくれていたと思う。
ここでのサルトルの命題、つまり現実を突きつける問いは、人間の行為全般に及ぶだろうから、彼女の対応はエンターテイメント以外にも当てはまるのだろう。そういうつもりで、彼女の別の言葉を聴いておくことにしよう。
「いまの世の中はとにかくエンターテインメントが溢れかえっていて、そのなかで「選んでもらう」ためにどの作品もどのタレントもありったけの大声、金切り声をはりあげて「私を見て、私を選んで」と絶叫している、ような印象さえあります……テレビが朝から晩までなんでも垂れ流しているようになる以前には、ありあまってしまった夜の時間は、話でもするか、本でも読むか、自分自身の趣味を求めるかしかなかった。そのころには、読んだ本が面白いかどうか、というのはとても重大なことだったような気がします。「娯楽」というのは、ただのありあまる、「自分を選んでくれ」と叫んでいる無数の選択肢からつまらなそうに一つ取り出してはまた放り出して次を気まぐれにつつく、ことではなしに、「一年間その日のくるのを楽しみに待っている」ほど重大なものであったはずです」。
「読んだ本が面白いかどうかというのはとても重大なこと」というのは良いですね。「読んだ本が面白いかどうか」などは生死にかかわる問題でもないのに、人間はやはりそういうものに気を惹かれてしまうものなのかもしれない。
そういう「重大なこと」は、たぶん世の中にありふれていることではないし、また宣伝や広告が教えてくれることでもない。なんだかそんな忘れかけていたことも思い出させてくれた文章であると思う。
はじめに言ったとおり、彼女の作品には「たかが数パーセントの面白さ」がある。だからこの本が傑作であるというのではないし、問題も多い。
たとえば文体がブログ風に偏っているということ。これはネットで読むにはちょうどいいのだろうが、活字で読むと違和感を覚えるのは自分だけだろうか。
他にもいろいろ文句をつければきりがないのだが、「たかが数パーセントの面白さ」を評価する自分には十分な本なのであった。
特にファンというわけでもないのだが、彼女のHP「神楽坂倶楽部」は良くチェックしていた。
毎回の更新が面白いというのではない。
ただ数百の更新のうちに何回かは、少なくとも自分には貴重に思える言葉があった気がする。
そうした「たかが数パーセントの面白さ」が故に、彼女の文章を見続けていたのである。
文学やエッセイ、エンターテイメント全般、あるいはその他あらゆる「作品」と呼ばれるもの、それは「面白い」からこそ必要とされる。
「傑作」という名に値する作品でも、その全てが等しく「面白い」というわけではない。これは文学にも音楽にも哲学にも当てはまると思う。
そういえば昔、村上春樹がエッセイで言っていたと思うのだけれど、
「あまりの素晴らしさにひっくり返るようなものが1%でもあれば、残りの99%は我慢する」
というような趣旨のことを述べていた(記憶違いだったら申し訳ない)。
この「たかが数パーセントの面白さ」があるかないかが、自分にとっての作家選びの基準であり、栗本薫はその内の一人だったので、残念としか言いようがない。
「グイン・サーガ」も読んだことが無いというのに偉そうに書いてしまったが、昨年出版されたエッセイ『ガン病棟のピーターラビット』 では、先ほど述べた「面白さ」についても語っていた。
![]() | ガン病棟のピーターラビット (ポプラ文庫) (2008/08) 中島 梓 商品詳細を見る |
「私は文芸評論家としてデビューしたころに、サルトルの命題「飢えた子供の前で文学は有効か」というのに対して「『文学』はまったく有効じゃない。でも『物語』は飢えた子供にいっとき飢えを忘れさせることができるのだ」ということを主張したことがあります。……しち面倒くさい偉い「文学」はものの役には立たないけれども、「面白くて波乱万丈の物語」は、飢えた子供をでも、死を見据えている患者をでも、いっとき、その心をとらえ、辛い現実を忘れさせるほどの魅力がある」
サルトルはあまり読んでないので知らないし、「文学」が全て役に立たないとは限らないかも、とも思うのだけれど、立場は明確に出ていてわかりやすい。
「それが何の役に立つの」とつい気にしたり、されたりする場合もあるのだが、彼女はエンターテイメントの姿を教えてくれていたと思う。
ここでのサルトルの命題、つまり現実を突きつける問いは、人間の行為全般に及ぶだろうから、彼女の対応はエンターテイメント以外にも当てはまるのだろう。そういうつもりで、彼女の別の言葉を聴いておくことにしよう。
「いまの世の中はとにかくエンターテインメントが溢れかえっていて、そのなかで「選んでもらう」ためにどの作品もどのタレントもありったけの大声、金切り声をはりあげて「私を見て、私を選んで」と絶叫している、ような印象さえあります……テレビが朝から晩までなんでも垂れ流しているようになる以前には、ありあまってしまった夜の時間は、話でもするか、本でも読むか、自分自身の趣味を求めるかしかなかった。そのころには、読んだ本が面白いかどうか、というのはとても重大なことだったような気がします。「娯楽」というのは、ただのありあまる、「自分を選んでくれ」と叫んでいる無数の選択肢からつまらなそうに一つ取り出してはまた放り出して次を気まぐれにつつく、ことではなしに、「一年間その日のくるのを楽しみに待っている」ほど重大なものであったはずです」。
「読んだ本が面白いかどうかというのはとても重大なこと」というのは良いですね。「読んだ本が面白いかどうか」などは生死にかかわる問題でもないのに、人間はやはりそういうものに気を惹かれてしまうものなのかもしれない。
そういう「重大なこと」は、たぶん世の中にありふれていることではないし、また宣伝や広告が教えてくれることでもない。なんだかそんな忘れかけていたことも思い出させてくれた文章であると思う。
はじめに言ったとおり、彼女の作品には「たかが数パーセントの面白さ」がある。だからこの本が傑作であるというのではないし、問題も多い。
たとえば文体がブログ風に偏っているということ。これはネットで読むにはちょうどいいのだろうが、活字で読むと違和感を覚えるのは自分だけだろうか。
他にもいろいろ文句をつければきりがないのだが、「たかが数パーセントの面白さ」を評価する自分には十分な本なのであった。
グローバリズムの脅威、市場万能主義に対する疑念、世界的大恐慌。
――ひとは、経済の問題に直面すると、
アダム・スミスに助けを求めたくなるもののようです。
新刊という訳でもないのですが、帯に
「2008年 エコノミストが選ぶ経済図書ベスト10」
「Shinsho Award 2009 新書大賞第6位」「支持の声、続々!」
とあり、なぜそんなに売れているのか気になったので、ご紹介します。
本書の企図としては、
スミスの二つの主著『道徳感情論』と『国富論』の対応をとり、
前者の人間観の上に、後者の経済論をのせる、
ということが挙げられます。
ある意味で、普通といえば、普通の試みなのですが、
原典からの引用が豊富で、また、それらの引用が、
非常に丁寧かつわかり易く解説されています。
ただし、なぜか『国富論』の有名なピンの話の引用はないんですけどね。
たとえば、筆者は、人間本性における「賢明さ」と「弱さ」、
「財産への道」と「徳への道」という二項対立を
詳述したうえで、それらの各項を次のようにまとめています。
「賢明さ」には社会の秩序をもたらす役割が、「弱さ」には
社会の繁栄をもたらす役割が与えられている。特に、「弱さ」
は一見すると悪徳なのであるが、そのような「弱さ」も、
「見えざる手」に導かれて、繁栄という目的の実現に
貢献するのである。(p.104)
万事この調子で、スミスの煩雑な(と一般的には言われている)議論を
無理強いすることなく、丁寧に解きほぐし、読者に理解させてくれます。
あまりに親切なために、もうスミス自身のテクストは
読まなくてもいいのではないか、と勘違いしてしまうほどです。
対照的なのは、スミスの邦訳者として知られる筆者による『アダム・スミス』。
本書は、伝記と著作の紹介が交互になっている構成で、
中公『世界の名著』の解説部分と言えば、イメージしやすいでしょうか。
伝記部分は、スミスの人間像が生き生きと描かれています。
とりわけ、スミスは放心癖の持ち主で、『国富論』執筆中、
未明に家を出て、気づいた時には15マイル離れた海岸を歩いていた
というエピソード。
さすがに15マイル(およそ24km)はないでしょうが、
論文に行き詰って、夜の街をむやみやたらと歩き回った
覚えのある人もいるのではないでしょうか。
著作としては、『道徳感情論』と『国富論』が簡単に紹介されています。
こちらも、原典からの引用が豊富なのですが、
投げっぱなしというか、丁寧な解説がついている訳ではありません。
また、スミスに対する、現代の経済学的観点からの断罪も
散見されます。
しかし、本書が、伝記部分に織り込まれた時代背景、思想背景も含め、
スミスの思想の魅力の、ある部分を伝えていることも事実です。
不充足感ともあいまって、読者はスミス自身のテクストを読まなければ、
という気にさせられます。
確かに、新書には、文字通りの「入門」書
すなわち、そこから入って原典にいたるための入口となる、
という役割のほかに、
原典を読む時間のない人のためにその一冊である程度わからせる
という役割があることはわかります。
とはいえ、もしこの現在の不況に対する活路を見出すために
スミスに関する本を手に取る人がいるなら、
そして消費を底上げすることが景気上昇につながるのなら、
原典へと至る「入門」の方こそ、不況脱出の役に立つのではないでしょうか。
試算
堂目卓生『アダム・スミス』で満足した場合 880円(税別)
水田洋『アダム・スミス』に飽き足らず、『国富論(一)』も買った場合 900+860=1760円(税別)
ただし、いずれも同数売れたとする。
――ひとは、経済の問題に直面すると、
アダム・スミスに助けを求めたくなるもののようです。
新刊という訳でもないのですが、帯に
「2008年 エコノミストが選ぶ経済図書ベスト10」
「Shinsho Award 2009 新書大賞第6位」「支持の声、続々!」
とあり、なぜそんなに売れているのか気になったので、ご紹介します。
![]() | アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書) (2008/03) 堂目 卓生 商品詳細を見る |
本書の企図としては、
スミスの二つの主著『道徳感情論』と『国富論』の対応をとり、
前者の人間観の上に、後者の経済論をのせる、
ということが挙げられます。
ある意味で、普通といえば、普通の試みなのですが、
原典からの引用が豊富で、また、それらの引用が、
非常に丁寧かつわかり易く解説されています。
ただし、なぜか『国富論』の有名なピンの話の引用はないんですけどね。
たとえば、筆者は、人間本性における「賢明さ」と「弱さ」、
「財産への道」と「徳への道」という二項対立を
詳述したうえで、それらの各項を次のようにまとめています。
「賢明さ」には社会の秩序をもたらす役割が、「弱さ」には
社会の繁栄をもたらす役割が与えられている。特に、「弱さ」
は一見すると悪徳なのであるが、そのような「弱さ」も、
「見えざる手」に導かれて、繁栄という目的の実現に
貢献するのである。(p.104)
万事この調子で、スミスの煩雑な(と一般的には言われている)議論を
無理強いすることなく、丁寧に解きほぐし、読者に理解させてくれます。
あまりに親切なために、もうスミス自身のテクストは
読まなくてもいいのではないか、と勘違いしてしまうほどです。
対照的なのは、スミスの邦訳者として知られる筆者による『アダム・スミス』。
![]() | アダム・スミス―自由主義とは何か (講談社学術文庫) (1997/05) 水田 洋 商品詳細を見る |
本書は、伝記と著作の紹介が交互になっている構成で、
中公『世界の名著』の解説部分と言えば、イメージしやすいでしょうか。
伝記部分は、スミスの人間像が生き生きと描かれています。
とりわけ、スミスは放心癖の持ち主で、『国富論』執筆中、
未明に家を出て、気づいた時には15マイル離れた海岸を歩いていた
というエピソード。
さすがに15マイル(およそ24km)はないでしょうが、
論文に行き詰って、夜の街をむやみやたらと歩き回った
覚えのある人もいるのではないでしょうか。
著作としては、『道徳感情論』と『国富論』が簡単に紹介されています。
こちらも、原典からの引用が豊富なのですが、
投げっぱなしというか、丁寧な解説がついている訳ではありません。
また、スミスに対する、現代の経済学的観点からの断罪も
散見されます。
しかし、本書が、伝記部分に織り込まれた時代背景、思想背景も含め、
スミスの思想の魅力の、ある部分を伝えていることも事実です。
不充足感ともあいまって、読者はスミス自身のテクストを読まなければ、
という気にさせられます。
確かに、新書には、文字通りの「入門」書
すなわち、そこから入って原典にいたるための入口となる、
という役割のほかに、
原典を読む時間のない人のためにその一冊である程度わからせる
という役割があることはわかります。
とはいえ、もしこの現在の不況に対する活路を見出すために
スミスに関する本を手に取る人がいるなら、
そして消費を底上げすることが景気上昇につながるのなら、
原典へと至る「入門」の方こそ、不況脱出の役に立つのではないでしょうか。
試算
堂目卓生『アダム・スミス』で満足した場合 880円(税別)
水田洋『アダム・スミス』に飽き足らず、『国富論(一)』も買った場合 900+860=1760円(税別)
ただし、いずれも同数売れたとする。
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