精読/濫読セミナー

新刊本のご紹介。

精神の築城術とともに

 モラルについての思考はお国柄が出やすいところがあり、柘植先生の『イギリスのモラリストたち』に引っ掛けて言わせていただけば、「フランスのモラリストたち」や「ドイツのモラリストたち」というくくりかたをしても、なにか面白いことが見えてくるのかもしれない。ただそうした違いを越えて、西洋近代の倫理思想を貫く共通のものが、なにか存在はしないだろうか。これも難しい問題だけれども、もしかしたらひとつのヒントになるかもしれないのは、ローマのストア主義の幅広い受容だ。デカルトはエリザベトのためにセネカを論じ、パスカルは最大の愛読書としてエピクテトスを挙げる。キケロ『義務論』のカント倫理学への影響は、前世紀の前半からずっと論じられてきた問題だし、先日紹介したハチスンの訳書でも、頻繁にキケロの同じ作品への言及が見られる。

 ただ、それだけ大きな影響力を持ったローマのストア主義が、専門家によって熱心に研究されているかというと、実はそうでもなかったりする。専門家に限られない広範な受容と、専門的な研究の不足のあいだには、ある種のねじれがあるわけだが、それがとりわけ顕著なのは、マルクス・アウレリウスの『自省録』というテクストではないだろうか。このテクストは、多くの西洋人の魂を支え続けてきたテクストであるとともに、この国では神谷美恵子という、得がたい専門外の名訳者を獲得することにより、長らく広い読者に読まれ愛されてきた。けれども、ローマのストア主義の研究が長らく低調なこの国には、『自省録』の専門的な研究などは、あまりにも寂しい数しかないというのが現状だ。こうした現状に風穴を開けてくれるかもしれない、待望の『自省録』論が、今年の夏に出たこの作品だ。

 
マルクス・アウレリウス『自省録』―精神の城塞 (書物誕生―あたらしい古典入門)マルクス・アウレリウス『自省録』―精神の城塞 (書物誕生―あたらしい古典入門)
(2009/07)
荻野 弘之

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 恥ずかしいことだが、私がこの作品の存在に気づいたのは、つい先週のことだ。この本が出たころにいろいろ立て込んでいたり、この「書物誕生」のシリーズに注目していなかったりということなどもあって、完全に見落としていた。そういう私がいまさら言うのもなんなのだが、まずこの「精神の城塞」という副題について一言申しておきたい。『自省録』の愛読者なら、この副題を見てすぐに、「激情から解放されている精神というものは、一つの城砦である。一たびそこへ避難すれば以後絶対に犯されることのないところで、人間にこれ以上安全堅固な場所はないのである。ゆえにこれを発見しない者は無知であり、これを発見しておきながらそこへ避難しない者は不幸である」(八・四八、神谷訳より)という、『自省録』の一節を連想するはずだ。そしてこのイメージには、私などにはほとんどあがらいがたい引力を及ぼしたりもする。書店でこの副題を見て、内容もよく確認せずに買うことになってしまったし、買ってからもこの本が家にあるとおもうと、なんとなく家に帰りたい気持ちになったことなどもあった。この副題は、著者の荻野氏によれば、先行研究へのオマージュの意味があるそうなのだが、そういうこととはまったく関係がないところで、この副題にはしてやられた気がした。
 
 作品の全体としても、類書があまりないのに、いい作品だとおもう。海の向こうの研究の成果が踏まえられ、私が知らなかったいろいろな情報が示されているし、また今日的な視点からの分析なども示されている。とくに『自省録』の全体が、ストアの三つの規則を反復する構成になっているというのは、この本を読まなければ、この先何度『自省録』を読み返しても、私は死ぬまで気がつかなかったかもしれない。とはいえ、過度に奇をてらわず、作品のイメージと神谷訳を大事にしてくれていることには、とても好感がもてる。とくに、結局のところ『自省録』は誰がなんのために書いたのか、というのは、けっこう結論次第で大きく落胆しかねない問題で、読みながらもはらはらしていた。それだけに、『自省録』のテクストを「皇帝は自分の手で書き下ろした。(中略)毎日少しずつ書きためていったが、それは公刊のために推敲を重ねる以前の状態にとどまっていた。これが後世の人々に読み継がれようとは思いもよらず、自分の書いた覚書がそのまま読者の目にふれることは彼の意図を裏切るものであったに違いない」という、本書の「暫定的な結論」(p.94)には、なんだかほっとした気がした。こんなはらはらと安堵感は、私は最近あまり味わったことがない。いやはや、スリリングな読書だ、スリリングな読書だ。

 
自省録 (岩波文庫)自省録 (岩波文庫)
(2007/02)
マルクスアウレーリウス

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感情の倫理学のさきへ

 熊野純彦先生の新刊『和辻哲郎』(岩波新書)を読めば明らかなように、和辻倫理学にはさまざまな思想家の研究と思索の成果が摂取され、流れ込んでいる。だから逆に、結局のところ、どの哲学者の影響が和辻倫理学にとって本質的であったのかは、なかなか難しい問題だ。こころみに岩波文庫版『倫理学』第四分冊末尾の、人名索引にあたってみよう。

和辻哲郎―文人哲学者の軌跡 (岩波新書 新赤版 1206)和辻哲郎―文人哲学者の軌跡 (岩波新書 新赤版 1206)
(2009/09)
熊野 純彦

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倫理学〈4〉 (岩波文庫)倫理学〈4〉 (岩波文庫)
(2007/04)
和辻 哲郎

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 索引をざっと見ただけでも、一番言及の回数が多いのがカントであることは分かる。二番目は判定が難しいけれども、その候補として、ヘーゲル、マリノウスキーとともに、アリストテレスでもハイデガーでもなく、シェーラーが来る。「人倫的組織」論に入るまえの、第一・二章の範囲では、カントと一二を争う回数なのではないだろうか。こういう外面的な指標だけでは本質的なことは分からないかもしれないが、和辻倫理学の「基礎理論はカント倫理学とシェーラー倫理学という両極性を絶えず考慮」しつつ展開されている、という見解(小倉志祥)も、ありうるひとつの見方なのかもしれない。
 そのカントとシェーラーの、もしかしたら重要なのかもしれない共通点として、両者とも一度、倫理学上の立場に関して、明らかに英国のモラル・センス学派に接近していることが挙げられる。カントもシェーラーも、自身の倫理学上の方法論を練りあげたあとには、モラル・センス学派を厳しい批判の対象としているけれども、やはり両者の倫理学説にその影響のあとがうかがえることは否定しようもない。
 こういう事例を考えるだけでも、近代の倫理学を考えるうえで、モラル・センス学派がとても大事なピースであることは明らかだろう。ただこの学派の主要な哲学者の名前や発想の特徴などを漠然と知っていても、あまり詳しく勉強したことはないというひとも、けっこういるのではないだろうか。そうした、名称はよく知られているけれども、具体像はぼやけがちな、この学派の全体像を平明に紹介してくれるのが、今年の夏に出たこの作品だ。

イギリスのモラリストたちイギリスのモラリストたち
(2009/07/22)
柘植 尚則

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 十七世紀から前世紀のはじめまでの英国のモラリスト(道徳を論じた思想家)たち十二人を取りあげ、その思想のおおよそを紹介する作品だ。「人間の幸福」「感情と理性」「幸福と理想」の三章構成で、最初の章にはホッブズ、シャフツベリらが登場、真ん中の章はハチスン、ヒューム、スミスらが並ぶ豪華なラインナップ、最終章は功利主義とその後の展開、という流れになっている。
 著者の柘植先生は近代英国倫理学を中心に研究されている倫理学者で、現在の日本でこういう作品を書ける、数少ない人物のおひとりだろう。スミスとヒューム、そして功利主義はともかく、全般的に言えば英国近代の倫理思想は、その重要さの割には研究者の層が薄い分野のひとつだとおもう。こういう概説書もあまり見当たらないから、本書は貴重な作品であるはずだ。

 本書では、各思想家に二十ページほどが割りあてられ、章のテーマや前後の思想家との関係が留意されつつ、その思想のおおよそが紹介されていくことになる。さすがにこの分量だと、ヒュームやスミスについては、目新しい情報を得るのは難しいところがある。ただマンデヴィルやリードなど、戯画的な紹介に毒されがちで、生半可に知っているだけの思想家の場合には、長年研究に携わってこられたかたの文章だと、このくらいのページ数でも、偏った見方を修正するセラピーの役目も果たしてくれる。マンデヴィルって、こんなに奥が深いのか、など。さらにバトラーやグリーンなどマイナーな思想家になると、とてもありがたく有益だ。それも単に個々の思想家についての情報が得られるというだけではなくて、読者に強く流れと繋がりを意識させる論述になっているので、相乗効果などもあって、獲得した情報量以上にいろいろとよく分かったような気になる。
 とくにシャフツベリからスミスに至る流れと、ベンサムとミルの功利主義って、私はどう繋がるのかのはっきりしたイメージをもっていなかったのだが、リードがはさまることによって、その断絶の実際がなんとなく見えてくるようにおもう。でも他方では、シャフツベリ以来、滔々と功利主義と親近的な思考が続いていることにも気づいたりして、断絶と連続性の両面で、ぼやけていた輪郭がだいぶはっきりとしてくる側面もある。ある程度倫理学に詳しい人でも、分量と価格の割には得るところの多い作品なのではないだろうか。

 巻末には個々の思想家ごとに、翻訳書や概説書などの参考文献が挙がっており、これもこの書を期に勉強してみたいという読者には有益だろう。ただ、これは喜ばしいことなのだが、この巻末の参考文献にはもう一冊つけ加える必要が生じている。英国の倫理学を考えるうえで重要な作品が、この十月にはじめて邦訳されたからだ。

道徳哲学序説 (近代社会思想コレクション03)道徳哲学序説 (近代社会思想コレクション03)
(2009/10/13)
フランシス・ハチスン

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 スミスにも大きな影響を与えた、英国のモラル・センス学派を代表する哲学者・ハチスンの、代表作のひとつの邦訳だ。ハチスンには『美と徳の観念の起原』の翻訳があるけれども、その倫理学説のエッセンスを伝えるこの作品は本邦初訳とのこと。まだ最初のほうしか読んでいないけれども、構成は「倫理学の基本項目」「自然の法に関する基本項目」「家政学と政治学の諸原理」の三部構成となっている。この構成を見るだけで、興味を感じるかたもいるのではないだろうか。
 また「近代社会思想コレクション」の一冊として刊行されることを不思議に感じられるかたもおられるかもしれないが、「古代人はエコノミックス(Oeconomics 経済学)を、公共経済すなわちポリスの経済ではなく家政の学問として考えていた。ハチスンは、これを修正し、公共経済へと拡大する。(中略)再編成された枠組みを継承したのが、弟子スミスの法学講義であり、スミスはさらに経済学を独立させるにいたる」(p. 427)という訳者解説の一節を引くだけでも、その社会思想上の重要性は明らかだろう。秋の夜長にじっくり読みたい一冊だ。

 また、柘植先生の『イギリスのモラリストたち』は、前世紀のはじめに倫理学の展開に決定的な影響を与えたムーア(本書の表記では「ムア」)で終わっている。その後の倫理学のゆくえが気になる人は、いつも最後に頼りがちな、この新書に手を伸ばしてみるのはいかがだろう。

現代哲学の名著―20世紀の20冊 (中公新書)現代哲学の名著―20世紀の20冊 (中公新書)
(2009/05)
熊野 純彦

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 これまで何度も取りあげてきた、「現代哲学の名著」二十冊を紹介する作品だ。『イギリスのモラリストたち』の流れを受けてなら、本新書では、古田徹也氏執筆のウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』と、山蔦真之氏によるオースティン『言語と行為』の項目が、まず関連するものとして挙げられるだろう。現代イギリス哲学の源流になった哲学者として、いろいろ厄介なラッセルはいったん括弧に入れるとすると、やっぱりムーア、ウィトゲンシュタイン、オースティンの三人の名前が挙がるのかもしれないし(そういう副題の本を以前に読んだことがあるから、こんなこと言っているだけなのだけど)、その後の英国の倫理学も、これらの哲学者の影響を抜きにしては考えられない。
 もちろん『論理哲学論考』も『言語と行為』も、あまり倫理学色の強い書物ではない。ただ、ともに倫理学がご専門ということもあって、古田氏の項目は『論考』の「語りえないもの」の論点に重きを置くことによって、山蔦氏の項目は「約束」をめぐる倫理学的な思考の伝統に『言語と行為』を位置づけることによって、これら二つの作品の倫理学的な側面を平均的な読解以上に強調している。この二つの項目を読むことで、『論考』と『言語と行為』の主要な論点を知ることができるばかりでなく、だいたいの方向として、ムーア以降の英国のモラリストたちがどういう方向に向かっているのか、そのおおよそくらいはうかがい知ることができるのではないだろうか(苦しい関係づけ)。ただ現代の倫理学で盛んに論じられ援用されるのは、『論考』ではなく、もっぱら中期以降のウィトゲンシュタインなのだけれども。これについてはまた今後。

 ともあれ、ムーアの与えた断絶には深いものがあって、現代では英国の倫理学者でも、あまりちゃんとハチスンとかスミスとか読んでいないのではないか、という疑いをもつことすらある。モラル・センスの論点を簡単にヒュームで済ませて、そのヒュームの議論の取り扱いもとても雑、というような英国発の論文を見ることもあるからだ。それではモラル・センスの伝統は現代ではどこへいってしまったのだろうか。これも難しい問題だが、もしかしたら、シェーラーを媒介にして、シェーラーから強く影響を受けたメルロ=ポンティへ、という流れも考えられるのかもしれない。今年のはじめに出た佐藤義之先生の『感じる道徳』でも、ハチスンやヒュームへの言及はないし、第一章の「共苦」も、ベースになっているのはシェーラーというよりメルロ=ポンティだったから、時代というのはそういうものなのだろう。
 そういう観点からすると、『現代哲学の名著』では、屋良朝彦氏執筆のメルロ=ポンティ『知覚の現象学』の項目が、関連する項目として挙がるであろう。もちろん項目の中心的な論点は、人と人との共感というよりは、視覚や聴覚といった諸感官の共感覚だけれども、Sensus Communisの伝統をおもうならば問題の根は共通だ。それにこの項目で超克の対象とされている、近代の大陸的な二元論においては、人と人の共感も不可能になるだろうから、モラル・センスという論点の、より根っこにある原理的で哲学的な問題を考えることができるはずだ。
 確かにメルロ=ポンティの項目自体は、ことがら自体の難しさのために、なかなか歯ごたえがあるものになっている。ただ、短いページ数であまり過度に噛み砕いて、読者を甘やかしてもしかたがない。それにメルロ=ポンティはなんとなくで読ませてしまうところがあるから、やっぱり考えられているのは難しい問題なのだと、あらためて気づくこともあるはずだ。
 それに、「内的反省をおこない、胸のうちの感情について調査すれば(中略)この道徳上の能力、良心があって、これによって正・邪の弁別がなされる。(中略)この良心がわれわれに示す人生のコースと行動こそが、完全に是認されうる唯一のものであり、それはすなわち、やさしい愛情のいっさいを育み、同時に、すべての人々の全般的な幸福のために、広い範囲にわたる配慮を維持していく、というものである」(ハチスンの上訳書、p.59-60)という、至極分かりやすい素敵な議論は、現代の哲学では、このままのかたちではとても通用しないだろう。「内的反省」や「胸のうち」の調査を、今では誰も論拠として認めてはくれないし、良心や共感についてなにかを言うのも、なかなか大変なのだ。『イギリスのモラリストたち』やハチスンの訳書を読んだ後で、屋良氏執筆の項目を読み、メルロ=ポンティの議論が立っている地点を見てもらえれば、その大変さをすこしは実感してもらえるのではないだろうか。いやはや、困難な時代だ、困難な時代だ。


感じる道徳―感情の現象学的倫理学感じる道徳―感情の現象学的倫理学
(2009/01)
佐藤 義之

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人倫の論理学を求めて

  「哲学」の語は、ギリシア語の原義にさかのぼるならば、「知恵への愛」を意味する。つまり「哲学」(愛智)とは元来、人間の生にとって大切で根本的なことがらについての知を、愛し求めて、どこまでも探究していく営みなのだ。こうした原初的な哲学の意味は、難解な専門用語を操って、奇抜なことや目新しいことを言うことが「哲学」であるとおもっているひとには、物足りなく響くかもしれない。ただ、時代を画す独創的で偉大な体系を打ち立てた哲学者ほど、このあまりにも素朴な「哲学」の原義に、純粋で忠実な感情を持ちつづけていることに気づいて、あらためて驚くことがある。『哲学原理』「仏訳者への書簡」冒頭のデカルトが、『実践理性批判』「弁証論」冒頭のカントが、その一例だ。私はそのように言い切る境地にはほど遠いけれども、「愛智」とは本当は、「もっと愚かに、甘く甘いもの」(田中美知太郎)なのかもしれない。

  この国で他に並ぶもののない哲学体系を築いた、和辻哲郎もまた、そうした「愛智」の精神に忠実であった哲学者だ。長女が伝えるところによれば、和辻の最終講義の最後のことばは、「ギリシア語のフィロソフィアは、智(ソフィア)への愛という意味である。諸君がいつまでもそれを持ちつづけるように祈る」、というものであったという。そうした「愛智」の精神に貫かれた学究の生涯を、そこから生まれた偉大な体系と重ね合わせながら辿る作品が、先月刊行されたこの新書だ。

  
和辻哲郎―文人哲学者の軌跡 (岩波新書 新赤版 1206)和辻哲郎―文人哲学者の軌跡 (岩波新書 新赤版 1206)
(2009/09)
熊野 純彦

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 岩波文庫版の和辻哲郎『倫理学』(全四冊)の校注者・解説者である熊野純彦先生による、和辻哲郎論だ。冒頭の「まえがき」によれば、「和辻の残した多面的な仕事、その背後にある生の振幅や、時代の動向にも、視線をとどかせることをこころみ」つつ、「和辻が生きた時代を背景に、その思考と生の軌跡を跡づけようとする」作品となっている。

 和辻哲郎については、ここではくどくどと説明する必要はないだろう。和辻哲郎がどういう人物かよく知らないひとや、その主著『倫理学』に馴染みがないひとには、本書を手にとることを強く勧めておくことにしよう。ある程度、和辻倫理学体系の構造について知識があるかたに向けて、本書の特色を伝えておきたい。本書では『自叙伝の試み』やさまざまな随筆など、和辻の多様なテクストに光が当てられているけれども、『倫理学』の取りあげかたにも、特徴がみとめられるようにおもわれる。

 どうしても大著『倫理学』を紹介するとなると、原理論である第一章と、独特の時間論・空間論が展開される第二章にばかり注目が集まって、第三章以降は十分に取りあげられないことになりがちだ。一読者の意識としても、第一章・第二章には目を引く鮮やかな論述があまりにも多く、そこを読むだけでくだびれてしまって、そのあとの部分には十分に集中できないことなどもある。けれども本書の『倫理学』の紹介は、第三章「人倫的組織」の論述に、比較的大きなスペースを割いている。和辻の生涯の軌跡に寄せて、各所で少しづつ、「家族」や「経済的組織」、「国家」などの論理が、紹介されていく。『倫理学』を読んだことがないひとはもちろん、じっくり読んだことがあるひとでも、ひとりで読んでいたときには読み飛ばしてしまっていた、興味深い第三章の論点に気づかされて、いろいろと学ぶところがあるはずだ。

 「人倫的組織」の章が、大枠の構図はともかく、細部の論点まで注目されることがそれほど多くないのは、上に述べたように、魅力的でそれ自体長大な部分に先立たれているからだけではないはずだ。やはりその主張が時代と和辻個人の経験に癒合している程度が、原理論の部分に比べてはなはだしく、どこまで哲学的に本気で付き合っていけばいいのか、真摯な読者でも戸惑うところが大きいのではないだろうか。ただ、「人倫的組織」の部分は、「世界それ自体が(中略)人間的であり、かくてまた倫理的である。そのかぎりで、倫理学は、和辻にあってもいわば第一哲学となる」(本新書、p.138)という、『倫理学』の根本的で大胆な志向が、具体的なかたちをとる主要な箇所のひとつであり、この部分の成否はこの『倫理学』の評価にとって、かなり本質的な意味をもつのかもしれない。とはいえ、あたかも自分の時代がいかなる短見や錯誤からも自由であるかのように、他者の「時代の制約」なるものを高みから論うことには、結局なんの意味もないようにおもう。 
 この新書では、和辻の生涯と時代に寄り添いながら、いわば和辻の思考と作品の内部から、独特な「人倫的組織」論の論理とその魅力が、またその避けがたい偏りと限界が、紹介され指摘されていくことになる。「人倫的組織」論を面白く読み解いていくには、これが最良の方法なのかもしれない。『倫理学』をよく知らないひとにも、和辻倫理学にはちょっと詳しいよというひとにも、新たな刺激を与えることになるだろう。和辻哲郎没後五十年を来年にひかえ、生誕百二十年にあたる今年に刊行された、この新書を期に、『倫理学』読解の重心が移動していくことなどもあるのかもしれない。

 この新書を機会に、『倫理学』を実際に手に取るのが一番だろうが、なにぶん大著なだけに、まだ勇気が出ない読者もいるかもしれない。そういう読者は、『倫理学』の論理を凝縮して追っていく、岩波文庫版『倫理学』の第三分冊に収録された、同じ熊野先生による解説も読んでおけば、備えは万全だろう。また『倫理学』の原理的な論理を簡単に確認しておきたいかたは、ここのところ言及することがなぜだか(?)多い、『現代哲学の名著』(中公新書)内の、三重野清顕氏執筆の和辻哲郎『倫理学』の項目にも目を通しておくと、なおこころの備えができるのかもしれない。岩波新書『和辻哲郎』には末尾で豊富な参考文献が挙げられているから、そのなかから関心にあうものを読んでみるのもいいだろう。いやはや、準備は万端だ、準備は万端だ。

倫理学〈3〉 (岩波文庫)倫理学〈3〉 (岩波文庫)
(2007/03)
和辻 哲郎

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現代哲学の名著―20世紀の20冊 (中公新書)現代哲学の名著―20世紀の20冊 (中公新書)
(2009/05)
熊野 純彦

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正義の系譜学のために

 「人格」に比べると、「哲学」という訳語の成立のいきさつが論じられることは、圧倒的に多い。ただ、この国の事情の特殊さがあまりにも強調される場合に忘れ去られがちなのは、ギリシア以外のすべての文明にとって、「哲学」は外来語であるという事情だ。ギリシアの「ピロソピアー」という語の発音をローマ字に写した、他のヨーロッパ人にとっても、この語は「かれら自身の言葉で意味を解くことがのできない、やはり一種わけのわからない言葉」であり、「ピロソピアー」は、「ギリシア人の言葉としてのみ、直接に有意味」な言葉なのだ(田中美知太郎)。実際、ギリシアから直接に受容したローマ文明にあっても、ある時期のいわゆる「良識ある」人びとにとって、哲学とは、嫌悪感を与えるだけの疎遠な外来文明にすぎなかった。私たちはあまりにも、「フランス哲学」や「ドイツ哲学」、あるいは「分析哲学」や「スピノザ哲学」という表現に、慣れすぎているのかもしれない。
 ともあれ、「哲学」という営みがひとの世に続くかぎり、ルーツであるギリシアへの回顧は不可欠な作業でありつづけることだろう。現在の世界的な研究者たちが、「ギリシア哲学」の現場で生きたひとびとの思考のかたちと、外来の「哲学」にはじめて触れた人びとの驚きと反応のさまを、ありありと伝えてくれるのが、次の書物だ。

 
古代ギリシア・ローマの哲学―ケンブリッジ・コンパニオン古代ギリシア・ローマの哲学―ケンブリッジ・コンパニオン
(2009/07)
デイヴィッド セドレー

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 古代哲学の特徴とその広がり・影響を概観する、ケンブリッジ・コンパニオンの一冊の邦訳だ。編者を含む総勢十三名の一線の研究者が、古代哲学のおおよそを平易に伝えている。項目は序章のほか、前ソクラテス期から新プラトン主義などの後期古代哲学までをたどる年代別の項目が七つと、文芸・宗教・科学などとの関係など、個別テーマを扱うものが五つという構成になっている。
 ケンブリッジ・コンパニオンは、哲学関係では、さまざまな思想家(クラシックな哲学者から現代の哲学者まで)についての最新の研究の成果を、専門家ばかりでなく広い読者に向けて発信する、定評のあるシリーズだ。日本でいうと、法政大学出版局から出ている『デカルト読本』『ウィトゲンシュタイン読本』などのシリーズをイメージすると近いのかもしれない。カント関係では二冊出ていて、ドゥルーズやデリダは出ているのか知らないけれども、フーコーとレヴィナスのものはぱらぱらめくってみたことがある。まあ論集だから、一冊の中でもできのよしあしはある。ただ研究上の必要やテーマへの関心のために読んでみたこのシリーズの論考では、「こんなもの読んで時間の無駄だった」というものはなかったから、全体としてのレヴェルは高いのかもしれない。もちろんこういうものをなんでも翻訳するのは、自国の研究を卑下することにもなりよくないだろうが、ギリシャ・ローマという幅の広い本巻は、日本の広い読者層にも有益で、邦訳の価値もあるのではないだろうか。

 全部の項目を読んだわけではないけど、やっぱりこれも水準は高いとおもう。手際よく整理されている「ヘレニズム哲学」や、日本でも知られているA.A.ロングによる「ローマ哲学」などは、面白い。あまり私の好きな感じではない章もいくつかあるけれども、でもみなこういう企画の論考としての水準は保っているとおもう。まあこういう一線の専門家たちによる概説的な作品を読むのは、新しい知識を得たいというよりも、自分の読みかたがずれていないか確認しておきたいという欲求によるところが大きい。その意味では目新しい情報はないものの、やっぱり「ソフィストとソクラテス」と「プラトン」の項が有益だった。
 とくに前者の末尾での、ソフィストの生が有意義であるのか、ソクラテスの生が有意義であるかという二択択一は、あらためて考えさせられるところが大きかった。ソクラテスがたんなる歴史上の一人物ではなく、現在の哲学の問題でもあるというところがあるように、ソフィストもまた、現在の抜き差しならない問題であるのかもしれない。「ソフィストとプラトン」の項目が伝えているように、知的刺激を与えるものなら何にでも思索を巡らせ、社会や宗教、価値や想像力を論じるソフィストたちは、「現代のいかなる基準に照らしても哲学者に他ならなかった」(p117)。そればかりでない。『エウテュデモス』で戯画的に描かれたような論争家たちは、「真理を発見することを目指して」ではなく、むしろただ「勝つために議論を行な」い(p168)、また言い負かされそうになったソフィストたちは、無知に気づき真理の探究に燃え立つどころか、「恥を掻かされたと思って腹を立てさえした」(p135)。ここに、真理のことや自分の魂のことなどまったく気遣いもしない、浅ましい平素の自分の姿をあらためて見る思いがするのは、私だけだろうか。ソフィストであることの誘惑は、人間の本性のかなり深いところに根ざした、相当に厄介なものでもあるのかもしれない。そんなことをあらためて考えさせられた論考であった。

 ただ内容的にも費用的にも、いきなり初学者がこれを手に取るのは厳しいかもしれない。日本の一般の読者にとって幸運なことには、岩波新書から出ている『西洋哲学史 古代から中世へ』が、上の研究書で扱われている範囲をほとんどカバーしているから、まずこちらを読みこんでおくのが賢明というものだろう。また、古代哲学なんて現代の哲学的な問題になんの関係もないだろう、などと考えているひとは、新書つながりでこちらにも手を伸ばしてみてほしい。

西洋哲学史―古代から中世へ (岩波新書)西洋哲学史―古代から中世へ (岩波新書)
(2006/04)
熊野 純彦

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現代哲学の名著―20世紀の20冊 (中公新書)現代哲学の名著―20世紀の20冊 (中公新書)
(2009/05)
熊野 純彦

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 二十冊の「現代哲学の名著」を紹介する、後者の新書の各項目では、思考と課題の点で通じることがある他の哲学者の著作の一節が、エピグラフとして引かれている。二十の項目のうち、古代ギリシア(プラトンとアリストテレス)は七つで、古代ローマ(キケロとセネカ)が二つだから、全体の半分近くが古代哲学からのものということになっている。たとえば、どちらもこのブログで触れたことのある、フレーゲ『算術の基礎』の項(編者の熊野純彦先生執筆)でのプラトン『ピレボス』や、廣松渉『世界の共同主観的存在構造』の項目(佐々木雄大氏執筆)でのアリストテレス『政治学』からの引用は、項目全体の中心的な論点へとまっすぐに読者を導いてくれる。ただちょっとくせのあるものも面白い。ベルクソン『時間と自由』(鈴木康則氏執筆)でのセネカは、たしかに変化球だけれども、ただ時間や自由という論点は、しかめっ面をして深刻に論じることなら誰にでもできる。そこをあえて、素朴で日常的な直観を大事にしながら切りこんでいく、この項目の特徴とセネカは響きあうところがあり、新鮮なベルクソン観を得る助けになるのかもしれない。またレヴィナス『全体性と無限』の項目(木元麻里氏執筆)のエピグラフも、プラトンという選択自体は普通なのだが、それが『国家』でも『パイドン』でもなく、あえて後期の『パルメニデス』という取りあわせが面白い。これがなんとなくのチョイスではなく、レヴィナスの後期までを視野に入れた項目全体のなかで効いていくることにもなり、私はこの選択は、この企画のなかでも好きなもののひとつだ。レヴィナスと新プラトン主義っていう研究があることは耳にしたことがあるけど、レヴィナスと後期プラトンっていう分野も、開拓の余地はあるのかもしれない。かなりしんどそうな分野だけど。

 上に挙げたのは連続性に注目したエピグラフだが、現代哲学が切り開いた新たな境地に着目している項目にも注目しておきたい。プラトン『国家』の一節を冒頭に引いている、冠木敦子氏執筆のデリダ『法の力』の項目が、そうした観点から注目に値するとおもう。上のケンブリッジ・コンパニオンのソフィストの項目を読んでいると、ソクラテス・プラトン以前に、すでに近代以降の法や正義をめぐる基本的な発想のパターンは出尽くしているような印象を覚えて、あらためて驚かされた。ギリシア人という「驚嘆すべき民族」の偉大さは、カントが認めていた数学や論理学、道徳哲学だけでなく、法や正義の分野にもみとめられるのかもしれない。だから、哲人王を批判するのは簡単だけれども、その代わりに提出される正義論が、プラトンからの進歩どころではなく、むしろソクラテス・プラトン以前の地点への後戻りではないのかどうかは、なかなか難しい問題なのだ。
  ただ、冠木氏が報告しているデリダ『法の力』の正義論、「正義は絶対的な他性の経験なのである」(p.228)という一文が象徴するような正義論は、どのギリシア人も考えつかなかったはずだ。そういう特異なデリダの正義論を、冠木氏の項目は手際よく伝えている。末尾を見ると、デリダになんの思い入れのない私でも、ちょっとつれないかな、ともおもうのだが、そういう対象との適切な距離感が、こういう明晰な概観を可能にしているのだろう。そしてこの項目の冒頭ではプラトンとアリストテレスの正義論が概観され、その問題提起を引き受けたうえで、さらにその先へ進むという筋になっている。プラトン以前の(そして近代以降にも、さらには現代でさえもよく見られる)ナイーブな正義論ではなく、プラトンの議論を踏まえたうえで、さらにそれを超えて、というデリダの問題の水準が伝わるし、荒谷大輔氏執筆のドゥルーズ『差異と反復』の項目も、プラトンのイデア論との関係でドゥルーズの「同一性」をめぐる議論を導入しているから、これらの項目を読めば、現代フランス思想が身を置いている地点も見えてくるのかもしれない。いやはや、視界は良好だ、視界は良好だ。

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人格の存在論のゆくえ

 世界のうちで出会われる人は、それまでの経験や行為の場面に応じて、「父親として」「店員として」「乗り合わせた乗客として」など、さまざまな「〜として」の相で立ち現れる。そうしたさまざまな「〜」のうち、人間社会において有意義な、一番抽象度の高いもののうちのひとつが、「人格」だろう。ただこの「人格」の原語である〈ペルソナ=persona/Person〉は、とてもややこしいことばだ。勉強をしていろいろな用例を知るにつれ、ますますわけが分からなくなることさえある。「「ペルソナとは何か」と問い直せば、これに満足な解答を与ええた哲学者は未だかつて存在しなかったであろう。というのは、ペルソナとは、もともと「もの」ではないのだから、言葉で説明できるはずがないのであり、従って、ペルソナという言葉は、ある超事物的主体を暗示するシムボルなのだ、ということに他ならない」(岩田靖夫)という、説明を拒んでいるようにも見える文章が、周到な用語解説などでの説明よりも、このことばの本質をよく言い当てているようにおもうのは、私だけだろうか。

 それでも翻訳というのは不思議なもので、そんな得体の知れない〈ペルソナ〉ということばにも、「人格」という訳語を当ててしまえば、なんとなく使いこなせている気になってしまう。そこでは「人格」という翻訳語の成りたちや、その訳語が出来上がるまでの先人たちの労苦は、忘れ去られてしまうことになる。だけど「Personとしての人間は倫理学の対象であ」り、主題としてのPersonを欠くならば「倫理学そのものが不可能なものである」(N. ハルトマン)とすれば、〈ペルソナ〉の語をどう扱うかは、一国の倫理学の根幹にかかわる深刻な問題なのであり、あらためて「人格」の語の由来を考えてみることも、たいせつな作業なのではないだろうか。そういう点で興味深い作品が、今年六月に新装復刊されたこの書物だ。

近代日本思想史における人格観念の成立近代日本思想史における人格観念の成立
(2009/06)
佐古 純一郎

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 この書はもともと一九九五年に刊行されたものらしい。どういう事情で復刊されたのか、そういう情報がこの新装版には載っていないので、ちょっとよく分からない。内容はタイトルの通りで、訳語としての「人格」の成立を考証する第一部ののちに、中島力造、若き西田幾多郎、大西祝など、明治年間に「人格」を問題として取りあげた思想家たちの資料を取りあげながら、この国における「人格観念の成立」を見届ける第二部以降が続く。正直なところ、第二部以降の「人格観念」の成立を問題とする部分は、引かれている資料はとても興味深いものばかりなのだが、資料と史実の羅列に終始してしまっている印象が強い。いくつか提示されている主張も、ちょっと裏づけと絞込みが足らないようにおもえる。まあこの問題に関して研究したいひとが、この書をもとにいろいろと調べて、改めてまとまった見解を打ちだす、その土台になってくれる書ではあるはずだ。
 ただそれよりも、冒頭の「人格」の訳語の部分が面白かった。この「人格」の語の成立は、井上哲次郎による有名な回顧をもとにして説明されることが多い。つまり、明治から大正にかけての倫理学者・中島力造が、同僚であった井上哲次郎に「Personalityをどう訳すべきか」とたずねたところ、井上が「人格と訳したらよかろう」と答え、その後流通することになった、という説だ。本書は、こっちも主張自体に乗るのはちょっと危ない気もするけれども、さまざまな資料を駆使して、この通説に揺さぶりをかけていくことになる。日本における西洋哲学/倫理学受容史として興味深いのはもちろん、訳語の成立の紆余曲折をつうじて、〈ペルソナ〉の語の厄介さについて、あらためて考えさせられた。

 訳語にまつわる悩みからは、現代の洋学者も決して解放されてはいない。ただそれだけに、先人とはいえ他の人が訳語で試行錯誤しているさまを見ることには、こころの卑しい部分をくすぐるよろこびがあることも確かだ。「卓絶」「無上大法」は、ともにこの書に登場する、カント哲学の基本中の基本の語に用いられた訳語だが、なんの訳語だか分からなくて気になるひとは、本書を手にとって確かめてみてほしい(後者は、戦前の哲学の翻訳書を読む機会が多いひとには、すぐ分かるかもしれない)。また問題の〈ペルソナ〉についても、「人格」に収斂していく以前の、いくつもの訳語が登場している。それぞれ興味深く、ページをめくる手を止めて考え込むことなどもあったのだが、ただやはりどれも守備範囲に限界があり、「人格」には勝てないようにおもった。「人がら」や「人身」では、たとえば〈Gesamtperson〉(シェーラー)は訳せないし、「有心者」はいい訳語で、共感するところが大きいのだけども、ただ〈psychologische Personlichkeit〉(カント)とかになると、「心」の要素が重複してしまう。なるべく意味を脱色させた語にするしかないのだが、でも「人品」ではなんのことだか分からないし、やっぱり「人格」に落ち着くのかな。まあこのように、後知恵でもってああだこうだ言うのは気楽なものだけども、「じゃあお前がこの時代に生きていたら、いったいどうしたんだ」と自問してみると、やはり冷や汗が出るおもいがする。先人や先学とは一般に、尊ぶべき存在なのだ。

 さて、「人格」という訳語の成立自体は、もう過去に属することがらだろうが、〈ペルソナ〉は哲学の現在の問題でもある。この問題を考えるには、何度か紹介してきた『現代哲学の名著』がなかなか興味深い。

現代哲学の名著―20世紀の20冊 (中公新書)現代哲学の名著―20世紀の20冊 (中公新書)
(2009/05)
熊野 純彦

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 いくつかの項目で、「人格」やそれにまつわる問題が取りあげられている。もし抜けているものがあったら申し訳ないのだが、気づいたものは紹介していきたい。まず、他のものとはちょっと毛色が違うので、先に単独で取りあげてしまうと、鈴木康則氏執筆のベルクソン『時間と自由』の項目が、自己の自由論の文脈で「人格」に言及するベルクソンの一節を引用している。項目自体も、等質的な時間や日々の労苦など、人間的生を圧迫するなまなましい事象と対比させながら、ベルクソンの考える「自由」の可能性を論じているから、それを通じて「人格」についてもなにがしかのイメージを得られるだろう。
 ここで紹介されている、人格の全体そのものの表現としての自由というベルクソン的な自由論は、黒田亘も『行為と規範』で高く評価していたように、自由というものを考えるうえでどうしてもはずせない。ただベルクソンが面白いのは、この項目での引用文にもあるように、こういう場面で「人格」の語が用いられていることだ。なんというか、一九世紀末から二十世紀前半にかけての時代は、ベルクソン以外でも、vitalなものやemotionalな次元をめぐる問題が「人格」と密接に関連して論じられることがあったのだが、そういうことはそれ以後、あまりなくなってしまったのではないだろうか。「人格」は一般には、お行儀の良い言葉になってしまったようにおもうし、理性の手前の次元に注目しながらも「人格」を鍵概念として用いる、前世紀中盤以降の哲学者を、私は寡聞にして知らない。貧しくやせ細ってしまったのは、「人格」という観念なのか、「生」をめぐる思考なのか。

 ただやはり、この国の動向も視野に入れて考えると、「人格」がらみのよく論じられる問題は、「ペルソナ」の語の由来を梃子にした、役柄/役割論だろう。『現代哲学の名著』では、馬渕浩二氏執筆のレーヴィット『共同存在の現象学』の項目と、宮村悠介(誰?)による坂部恵『仮面の解釈学』の項が、この問題にダイレクトに言及している。この問題を聞いたことがないひとは、まずこれらの項目を、とりわけ説明の丁寧な馬渕氏の項目に当たるのがいいだろう。そして馬渕氏の項目が末尾で、和辻哲郎と廣松渉の名を挙げているように、和辻哲郎『倫理学』(三重野清顕氏執筆)での「役割」においても、また廣松渉『世界の共同主観的存在構造』の項目で佐々木雄大氏が、一書の認識の場面から歴史の問題へと論点をつなぐ場面で紹介している「役柄」においても、踏まえられているのは間違いなく、同様の「人格」と「役割/役柄」の密接な結びつきの問題だ。この問題を知らなかったひとも、それぞれの哲学者の著作をけっこう読み込んでいるひとも、既読の作品と未読の作品が混じっているひとも、読み比べてみるとなかなか面白いはずだ。
 私は、少なくとも『共同存在の現象学』の段階ではレーヴィットは、まだカント的な人格概念に片足残しているところがあるから、「間柄」という破壊力のある概念で押していく和辻のほうが、ラディカルなような気がしている。この二択でいくと、廣松も坂部先生も和辻寄りだとはおもうのだけども、ただやっぱり抱えている仮想敵のイメージがそれぞれで相当に違うし、同様の論点をくぐりぬけているのに、最終的に行きたい方向はばらばらであろうから、そのあたりがどうなっているのか、とても興味深い。まあこれも、西洋近代的なものの批判ということでおおざっぱにくくってしまえば、それまでなのだけれども。ともかく、こんな壮大な読み比べができるのは、こういう企画ならではの醍醐味だろう。ぜひ手にとって味わってみてほしい。いやはや、なかなかの壮観だ、なかなかの壮観だ。

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